1991-04-09 第120回国会 参議院 文教委員会 第5号
例えば、昨年建設された小樽市の西陵中学校の場合ですけれども、プール本体が建設費で八千八百十五万円に対して国庫補助が一千二百五十三万と、補助率で一四・二%であるのに対して、上屋については三千百八十九万円に対し国庫補助が二百三十六万と、補助率がわずか七・四%で、本体に比べて約半分ということなんですね。
例えば、昨年建設された小樽市の西陵中学校の場合ですけれども、プール本体が建設費で八千八百十五万円に対して国庫補助が一千二百五十三万と、補助率で一四・二%であるのに対して、上屋については三千百八十九万円に対し国庫補助が二百三十六万と、補助率がわずか七・四%で、本体に比べて約半分ということなんですね。
例を一つあげますというと、京都市の宝池のかまあと、あるいは千葉県君津郡青堀町の内裏塚の問題、あるいは千葉市の加曽利貝塚、兵庫県揖保郡御津町にある輿塚、それから大阪府の西陵古墳、さらには岡山県の美作台地の問題等々ございました。あるいは福岡市の福岡城の鴻臚館の問題についても質問があったわけであります。
○小林武君 そうすると、まあ端的にいってあれですか、西陵古墳というのは、まあ初めは持ち主が指定買い上げの陳情書を出しておられるわけでありますが、さらに私の聞いているのでは、現状ではだいぶ様子が変わってきているようにも聞いているのです。
○小林武君 指定地の問題、指定されたところはあまり心配のないような今のお話なんですけれども、たとえば大阪府の西陵古墳ですか、これは指定されているんですね。これは指定されておりますけれども、ここに問題が起こっているでしょう。なお、ここの地主は史跡解除の願い出をしている。
○政府委員(宮地茂君) これは、府といたしましては、この西陵古墳を、西陵古墳所在の泉南郡岬町ですか、そこの町に買えということをいっておるし、町としては、自分では買えないから国で買ってほしいといっております。
なおまた西陵友の会、これは第七次、第八次の帰還者の組織しておる連絡会でありますが、これとの関連は一体どうであるか、及びそういうものの組織の内容について聞いておる。それから帰還者の発行しておる機関誌、これが定期的に発行されておるか、あるいは内容はどうであるか、こういうことを聞いておる。なおこの高橋哲郎という者も政治的活動をしておるのではないか、こういうことを聞いておる。
現場でも承わりましたし、いろいろ書きになりましたもの等も見せて頂いたのでございますが、実際の問題といたしまして、四百十七名西陵からお帰りになりました人、これは全部未復員者として扱えというのが御主張だつたようでございます。
次は山西における数回の戦闘で戦死をいたしました者が約三百名、次は昭和二十四年以降二十七年までの間に帰つて参りました者、それから戦闘によらないで死亡いたしました者、これを合せましたのが約百五十名、次は太原が攻略されましてのち、中共軍の手によつて永年、次いで西陵その他の地区、これに収容されました者が約五百五十名でございます。
山下さん、佐々木さん、それぞれ西陵においでになられて、戦犯として御苦労いただいたわけですが、今御説明のお言葉の中に、上官から強制的に居残りを命ぜられたということでありました。
○受田委員 それで、山下さんの場合は、帰られた人が伝えておつたので助かつたわけですが、山下さんのさつきの御説明の中にも、自分も西陵に残留者がいることを知つているというお話があつたわけですが、その氏名とか、その場所とかいうこともおわかりであれば、そういうものが今度御報告されることによつて、まだわからなかつた御家族に安心感を与えるわけです。
そこで、その問題はその程度にしまして、二十四年でございますか、戦犯としまして西陵に収容されましてからいろいろな教育をお受けになつたように伺つておりますが、その当時西陵において受けられた、持つておつたところの祖国日本に対する皆さんの状況判断と、今お帰りになつて数日ではありますが、実際の日本と、どうでございますか。
この人たちは終戦後強制的に残留させられ、閻錫山軍に加入したため戦犯に問われ、河北省北部の西陵というところに収容されていたのでありますが、今回釈放されて帰国したのであります。その辺の事情等については、あとで参考人の方から説明があることと存じます。なお、引揚者中に、入院を要する病人が十六名おりました。それから邦人の遺骨十六体が引揚者によつて持ち帰えられておりました。
壽彦君 高野 一夫君 高橋 道男君 湯山 勇君 事務局側 常任委員会専門 員 草間 弘司君 常任委員会専門 員 多田 仁己君 参考人 帰国者集団長西 陵地区元華北交 通乗務員 湯浅 質治君 北京地区元軍医 大尉 吉沢 国雄君 西陵地区元陸軍
最近帰つて来られた方々のうちには、特に第六次の方々の中に、いわゆる戦犯者とみなされる方々の家族というような方が帰つて来られておりまして、その方々の話によりますと、大体西陵あるいは永年、太原あたりにおられるのじやないかということでございますが、その方方がはたしてソ連側から引渡された九百七十一名の方々に該当するかどうかということは、明確な資料がいまだつかみ得ない状況でございます。